2008年5月7日水曜日

映画「スパイダーウィックの謎」The Spiderwick Chronicles

於TOHOシネマズ西新井

久しぶりにまともなファンタジー映画を観た。
いいですね、この映画。
あんちょくファンタジーにありがちなのは、主人公や主人公たちが特異点となって、物事や流れがそこの点に集まり、脚本家が目指す方向に拡散していく、というものですね。
そんなテレビドラマや映画はいっぱいあるけれど、ファンタジーは特に、運命づけられた勇者であるとか、隠された超能力の才能があるとか、ドラマ作りに都合のいい設定をおおっぴらにやっていいジャンルなのだ。と多くの映画プロデューサーは思ってるらしい。
だから近頃のファンタジー映画は、まずそれら特異点が主人公にあって、特異点がいかに特異か、というのを競ってるふしがある。
その特異さを表現するのにCGに頼りきりで、ビジュアル面さえデコレーションしていれば、あとはなるようになる、うまくすればCGが説得力にもなるんじゃないか、そんな甘い見通しで作った映画の代表が、僕が最近見たなかでは「ライラの冒険」(このブログ2008.3.18の記述)ですね。

しかしこの「スパイダーウィックの謎」は違う。

The Spiderwick Chronicles
2007年アメリカ映画。
監督 マーク・ウォーターズ

CGもいっぱいあるけれど、今の基準で言えばひかえめに見えるし、(ひかえてなくてもひかえめに見せるのがVFXマンの腕の見せ所!)
主人公たち姉弟も、人より凄い才能があったり、強い幸運や守護者がいたりしない。

妖精、というよりも妖怪と言ったほうがしっくりくるクリーチャーデザインも、あちらの妖怪研究家がテコ入れしたかのようで、新鮮味はなくてもなんだか西洋的なナマナマしさがある。水木しげる風(あくまで西洋の)とでも言いましょうか、舶来本の挿絵に出てきそうなのです。

大おばさんや、妖精の国に連れて行かれたアーサー・スパイダーウィック(デビッド「ボーン・アルティメイタム」ストラザーン)にやっと会えても、一発逆転できるようなヒントやらアイテムやらがもらえるわけでもない。
決して広い世界の冒険でもない。せいぜい家から半径100メートルぐらいかな。だからでこそ妖精のいる現実世界であって、人間のこどもができる事なんて限られているのだ。
トロールなんぞに追いかけられたら必死こいて逃げるしかないんですよ。(トロールじゃなくて別の名前だったかな)

しぶいファンタジー映画だ〜。
ニック・ノルティ演じる悪妖怪が、強いけれどどこかしらインスタントな強さだから、インスタントに負けてしまうという面も、なんだか水木しげる風に感じられる。
このしぶさ、ミニスケールっぽさが、冒険をよりリアルに、一歩入ってみたいものにさせるのです。
大きすぎない空想世界、現実からの無理のない延長、そのバランスがいい。
「ひねくれてるので信じてもらえない」という定番シチュエーションから、いつしか3姉弟で「冒険」するわくわく感まで、
クリーチャー造形がCGメインのファンタジー映画に、こんなに心躍るとは思わなかった!脱帽です!

原作は数冊の本になってて、どうやらその数冊分がこの映画になってるようだから、やや"いそがしい感"はあるけれど、うまい具合に脚本化してるので、キャラクターの感情面などのリアリティが破錠することもない。
加えて、ジャレッド少年の喪失感もきっちりと描いている。
おっと脚本はジョン・セイルズですよ。
続編を作る気配ゼロという潔さもいいですね。

ひとつよくわからないのは、なぜ双子なのか、という事。
まあ原作がそうだからなんだろうし、人気子役フレディ・ハイモアのファンへのサービスで、ふたつのキャラを演じさせよう、という思惑もあったのだろうけれど。
対照的な双子の兄弟がいる、という事がジャレッドの喪失感に与える影響をもっと描かないと、映画として双子にした意味があまりないような気がする。
映画やドラマの典型的な双子なんて(特に子供の)、同じ服着て、並んで立って、何かあったら同じリアクションして、やたら呼吸があって…
そんな描写はしたくなかったのだろうし、そこまでやれとは言わないけれど、サイモンとジャレッドで、ほら二人はこんなに似ている、というシーンがひとつぐらいあった方が、ジャレッドのさみしさや行動をもっと理解できそうな気がするのです。

ところで、最後にちょこっと出て来る父親役、アンドリュー「イヤー・オブ・ザ・ガン」マッカーシーですよ、へ〜え、情けない父親役がしっくりくる風貌になったもんだねえ。時を感じますな。

0 件のコメント: